説教要約(8月)

2023年8月27日(日)  説教題:「良き羊飼いに」  聖書;ヨハネによる福音書10章11~14節
   三浦修師の説教だったため説教要旨はありません。


2023年8月20日(日)  説教題:「新しくされて」  聖書;ローマの信徒への手紙12章1~8節
 信仰者の新しい生活について書かれています。これは「神に喜ばれる」、「変えていただく」と表現されていますように、自分がしたいことから神様のされることに委ねていくことです。今まで自分にあった主体を神様に移し、献げていく生活が新しい生活です。
 主体が神様にあったとしても、私たちは自分自身のままで新しくされます。私たちはそれぞれに別の人間です。得意なこともあれば、不得意なこともあります。そのうえでそれぞれが与えられた働きを成して教会に繋がり、神様と繋がっています。主体は神様にあるのですが、それは自己を消し去ってしまうことではありません。私が私自身でありながら、神様は用いてくれます。全ての人を同じように変えてしまうのではなく、同じ神様を信じていたとしても違った人間として新しくされていきます。聖書はそのために私たちが「多くの部分から成り立ってキリストに結ばれている」と伝えています。主体は神様にあるのですが、その中で多くの部分である私たちを、多くの部分のままに用いてくださるのです。
 この価値観に基づいて歩んでいるのが教会です。教会には見える形でも見えない形でも奉仕があり、それらによって礼拝が作られています。これらは人の目で見れば上手かったり優れている方が良いのでありましょう。しかし主体は人間ではなく神様です。出来ようと出来まいと、神様と繋がっている。そんな、キリストに結ばれている多くの部分の1人であることを、神様は喜んでくださるのです。
 これらは奉仕だけではなく私たちの生きる社会全体や、それぞれが生きるコミュニティーなど様々な場面にも同じことがいえます。多くの部分であることを神様が喜んでくれる神様にへと、主体を委ねることによって世の中の基準から解放されます。社会全体がそのようになってくれれば、もっと風通しが良くなるように思います。そのためにパウロはこの手紙を通してキリストの福音を伝えていきました。
 競争や勝利、他者を蹴落としたり、冷笑するのが大多数な社会です。その中にあってもせめてキリスト者である私たちは、神様に愛された多くの部分であることを喜び、それを伝えていきたいと願っています。言葉に出さなくとも、私たちが遣わされていく現場で、この価値観に基づいた歩みを重ねていく。そのような形で神様は私たちを用いてくれます。新しくされて出ていきましょう。


2023年8月13日(日)  説教題:「退けられていない」  聖書;ローマの信徒への手紙10章5~1節
 パウロはエリヤに与えられた神様の言葉を引用しています。エリヤは旧約聖書に書かれている預言者です。彼は偽預言者と対決して勝利したことで命を狙われます。そんなエリヤに神様が言ったのが4節です。どれだけ神様に敵対する人がいても、神様は信じる人たちをエリヤのために残していました。これは神様からエリヤへ「どれだけ大変な中にあっても、あなたは孤独ではない」というメッセージです。神様はエリヤがどれだけピンチでも退けて孤立させずに、同じ神を信じる人たちを残しておいてくれました。
 それが「同じように、現に今も」続いていることが5節では約束されています。パウロなどのイエス様を信じる人たちは、この時はまだ少数派でした。律法に拘るユダヤ人たちの方が大勢います。それでもエリヤに神様が言われたのと同じように「孤独ではない」と自分たちを励ましています。
 パウロはエリヤへ神様から与えられた言葉を引用しながら、自分たちは孤独ではないと語り励ましていきました。5節ではパウロがそのことを「同じように、現に今も、」続いていると語っていました。これはパウロたちの時代だけではなく、私たちが生きている現代でも同じように続いています。
 コロナ禍を経て教会はオンラインで繋がることができるようになりました。教会は伝道や牧会など様々な目的をもってオンライン技術を用いていくのですが、神様からエリヤに与えられた言葉「あなたは1人ではない」という意味の言葉がその目的にしっくりくるように思います。教会が礼拝などを配信していけば、皆さんがここに来ることができなくなったとしても、完全に孤立してしまうことがないからです。
 もちろんオンラインでの礼拝は、会堂に集まって守る礼拝と全く同じだけの体験になることはないことでしょう。会堂での礼拝が10としたら67、場合によっては4くらいになってしまうかもしれません。しかし、0にはなりません。これまでは教会に来られなくなったり、遠方の施設に入ってしまえば、ほとんど0に近いような状況になっていました。この教会との繋がりが0になってしまわないために、オンライン配信は用いられていきます。神様がエリヤに語りパウロがそれを使って励ました。「あなたは少ないかもしれないが、1人ではない」と。私たちにも0になってしまわないため、そして孤立してしまわないための道が示されています。0にならないようにする。これは聖書が私たちに伝える「あなたは退けられていない」というメッセージです。


2023年8月6日(日)  説教題:「あなたの口、あなたの心」  聖書;ローマの信徒への手紙10章5~13節
 今日は平和聖日礼拝です。日本のキリスト教会にも戦争に関する被害と加害の歴史があります。教会は積極的に戦争に協力し、アジアを侵略することを正当化しました。これは神様に喜ばれることだったのでしょうか。私たちが祈り求めていくのは、国や政府がもっともらしく言う武力による平和ではなく、神様に喜んでもらう平和です。

パウロはこの箇所でも信仰による義について語っています。これはただキリストの出来事を信じる者たちを、神様が「義」と、良しとしてくださるという意味です。大切なのは「何が神様に喜ばれるのか」ということです。そのためにはみ言葉を通してみ心を訪ね求めていく必要があります。そのために神様は私たちの心と口にみ言葉を与えてくださいました。私たちがみ言葉を読むのは目や手などの感覚です。そして理解していくのは頭です。しかしそれを自分のものにするのは心と口を通してです。私たちはみ言葉を知識として理解するのではなく、心と口を通して与えられた言葉として自分のものにしていくのです。

そのように自分のものとして与えられたみ言葉に聞いたときに、私たちは神様のみ心を知ります。私に置かれたみ言葉、私の口と心に与えられたみ言葉が、神様によって示されたみ心です。このみ心を知り従って歩んでいくこと。神様はこれを喜んでくれます。私たちに置かれたみ言葉によって知ったみ心が、私たち一人ひとりのキリスト者が歩んでいく道なのです。

これは私たちが平和を祈り求めていくときにも同じことが言えます。政府や国の言う「平和」は、武力に頼るものです。しかしそれは神様のみ心ではないと私は思います。私たちが祈っていくのは神様の良しとされる、喜ばれる平和です。次に私たちキリスト教会が戦争に協力することを求められたとき。恐らくそれに抗っていく手段は持っていないことでしょう。だから私たちは武力という人間の力によって勝ち取る平和ではなく、神様によってただ与えられる、そして喜んでいただける平和を祈り求めていかなければなりません。人間ではなく神の義に適う平和を私たちは祈り求めていくのです。そのために神様はあなたの口、あなたの心にみ言葉をおかれました。イエス様の伝えた平和、神様の与えてくれる平和が、そこにあるからです。